世界にうなぎは19種類
日本には【ニホンウナギ】【オオウナギ】の2種類が生息しています。一般的にうなぎ屋で使用しているのは【ニホンウナギ】ですが、原料減少から、最近ではビカーラ種なども市場で見かけます。
外国産うなぎ
過去には中国産うなぎからマラカイトグリーンなどの発がん性物質が検出されたこともありましたが、現在では25メートルプールに目薬1滴落としただけでも引っかかるくらい厳しい検査を通過しなければ輸入できません。逆に国産うなぎに関しては自主検査が中心なので、外国産うなぎの方が安全性が客観的に証明されているとも言えます。良質なうなぎを求めるなら、産地ではなく、品種・検査内容を重視しなければなりません。
うなぎの養殖
現在市場に出回るうなぎの99%は「養殖」です。養殖と言っても海にいる【シラスウナギ】を採捕し、それを池で育てています。産卵・孵化からの「完全養殖」も成功はしているのですが、コストが掛かりすぎるので採算が合わず、市場には出てきていません。
養殖方法
160日程度で育てる「単年養殖」、300日程度で育てる「周年養殖」、600〜700日程度で育てる「低温養殖」があります。日本は主に単年養殖で、12月〜3月に採捕されたシラスウナギを約半年で育て、夏前くらいから池上げ(出荷)されます。海外では周年飼育が多く、10月頃から池上げされます。
新仔とヒネ仔
一年未満の若いうなぎのことを新仔と呼び、一方、一年以上経過したうなぎをヒネ仔と呼びます。新仔は若いだけあって、皮が柔らかく小骨も細いのに対し、ヒネ仔は皮も固く、小骨も太くなる傾向にあります。一般的には新仔が好まれると言われていますが、若すぎる新仔はうなぎの味が薄い傾向にあり、職人の中には嫌う人もいます。
関東・関西の違い
広大な平野が広がる関東は、川の流れも緩やかで川底に泥がたまり易く、うなぎも独特の匂いのするものが多いです。一方、西側は山と海との間が狭く川の流れも急で水が綺麗なので、あまり臭みがありません。蒸しを入れた関東焼のうなぎは、余分な油が落ちて臭みも抜け、さっぱりとした味に仕上がります。対して関西焼では蒸しを入れないため、うなぎ本来の味が残りパンチのある仕上がりになります。昔は養殖もしていなかったため、品質に合わせて調理法も違いました。今では養殖中心で品質管理もしっかりしているので、あまり匂いの強いものはありません。また一般的には関東は武家の町なので切腹を嫌うから背開き、関西は商人の町なので、腹を割って話すということから腹開きなどと言われています。しかし実際は、【蒸し】を入れたうなぎは柔らかく、身の薄い部分が外側に来る腹開きだと身が割れてしまったりするので、関東では背開きで調理するようになりました。
うな丼とうな重の違い
大正時代に、陶器の器ではなく高価な器(漆塗り)が登場してきました。重箱を使うことで見た目もよくなり、上絵などを書き加えた漆器を使用することにより 高級感をアピールしていったようです。関東風のうなぎは柔らかく箸で切ることができますが、関西風のうなぎは箸で切れる程は柔らかくないので、うな重に向きません。
ひつまぶしの由来
出前で陶器の丼が割れて足らなくなり、割れない木のお櫃を使う様になりました。また、取り分ける時に先にうなぎだけがなくならないように、細かく刻むようになりました。うなぎの養殖が始まる前は、サイズも品質もバラバラだったので、細かく刻んで色々なうなぎを混ぜて作ったとも言われています。そのため味がぶれやすく、薬味を添えたりお茶漬けにしたりと言う食べ方をするようになりました。
何故、“ひつまぶし”って言うの?
塗す(まぶす)→転じて“まむし”と言われるほか、器の中、またはごはんの間で蒸らす→間蒸し(まむし)と言説もあります。お好みの柔らかさになるまで、蓋をして蒸らして下さい。
うなぎの歴史
日本でうなぎの歴史として最も古いのは約5000年前。縄文時代の貝塚からうなぎの骨が出土しており、古くから日本人に馴染みのある魚だったということが伺えます。うなぎが文献に初めて登場したのはかの有名な「万葉集」でした。大伴家持が吉田連老に贈ったこんな歌があります。
石麻呂に 吾れもの申す 夏痩せに よしといふものぞ むなぎ(鰻)とり召せ
これは大伴家持が吉田連老の夏痩せを笑い、うなぎを食べるようにと奨めている歌です。この頃からすでにうなぎが滋養強壮に効果のある魚として知られていたことがわかります。ちなみに、平安時代の貴族はうなぎを白蒸しにして、塩味で食べることを好んでいたようです。
「鰻」の由来
漢字の由来は「曼」という字に関係しているようです。この文字には 「つや・長い」という意味が含まれていることから、つやのある長い魚ということで この漢字ができたのではないかと思われます。また、うなぎは昔「むなぎ」と呼ばれており、万葉集などの書物には「むなぎ」と書かれています。
- 「む」:身、「なぎ」:長いという意味。
- うなぎの胸の部分は黄色っぽくなっているから「胸黄(むなぎ)」がうなぎへと変化した。
- 形が棟木(むなぎ)に似ていること等に由来。12世紀頃から「うなぎ」と呼ばれるようになった。
「蒲焼」のはじまり
うなぎを筒切りにして串に刺し焼いて食べた、その姿形が蒲(がま)の穂に似ていたことから、「蒲焼き」と呼ばれるようになったと言われています。※1399年著「鈴鹿家記」より
他にも、うなぎを焼いた時の【かんばしい】香りが転化して、かんばや、香疾(かばや)、蒲焼きになったと言う説などもあります。
室町時代までは塩・酢みそ・辛子酢で食べられていたようで、室町時代末期には、ぶつ切りしたうなぎに醤油や酒、山椒味噌などで味付けした「宇治丸」と呼ばれる蒲焼き料理が登場しました。 この料理は、近江の宇治川のうなぎが大変美味だったことに由来すると言われています。
18世紀、天保年間(1781年〜1789年)に、【濃い口しょうゆ】が作られるようになり(千葉県銚子・ヒゲタ醤油、五代目当主田中玄蕃) それが大流行しました。この時期に確立された濃い口しょうゆベースのうなぎの蒲焼きと言う料理法は、完成された当時から現在まで変わらず続いています。
土用丑の日って何?
土用ときくと、夏のことを思い出される方が多いと思いますが、実は土用は年に4回。暦の上での季節の終わり(「立夏」「立秋」「立冬」「立春」の前)の19日間の事を指しています。丑というのは、十二支の丑のことなので、従って「土用の丑」とは土用の期間の丑の日ということになります。これは十二支を1日ごとに並べて いくので12日に1度回ってくることになります。この土用の丑の日にうなぎ等、「う」のつくものを食べると身体が丈夫になるという言い伝えがあります。
なんで土用丑の日にうなぎ?
諸説ありますが、下記のような話が知られています。
平賀源内 説
一番有名なのが、平賀源内が土用の丑をうなぎの日にした元祖というもの。
客足の少ないうなぎ屋から繁盛の妙案はないかと相談を持ち掛けられた平賀源内が「本日、土用丑の日」と店頭に掲げたところ、これが大当たりしてうなぎ屋は、大繁盛したそうです。
春木屋善兵衛 説
ある時、春木屋に藤堂(大名)のお屋敷から、大量の蒲焼の注文がありました。 子の日、丑の日、寅の日の三日に分けてうなぎを焼き、土蔵に貯蔵して三日間置いたところ、丑の日に焼いたうなぎだけが美味しいままで、それを藤堂様にお納めし、お褒めをいただいたそうです。
大田蜀山人 説
江戸時代の狂歌師の蜀山人(大田南畝)が、神田川という鰻屋に頼まれ、「丑の日に、うなぎを食べたら病気にならない」という内容の狂歌を作って宣伝したことが始まりといわれています。
うな丼の始まり
諸説ありますが、明治18年の「俗事百工起源」には、うなぎ好きな堺町の芝居金主、大久保今助が「うな丼」の始まりと書かれています。当時うなぎの蒲焼は出前の際に冷めないよう、温めた糠(ぬか)で保温して配達されていました。しかしこの大久保今助は、糠を取ってうなぎを食べるのが面倒だという理由で、ごはんの上に乗せるよう注文。これがうな丼誕生のきっかけとなりました。
うな重の始まり
うな重が登場したのはそのさらに後で、昭和35年(1960年)、東京のうなぎ屋、「重箱」という店が始まりだと言われています。重箱に入ったその姿形は高級感があり体裁が良いと言うので、他の店もそれを真似するようになったそうです。